京都エスブック50年の軌跡

こやまあきゆき

2008年08月05日 18:09

京都の外国料理のお店を紹介したこのブログが出版される運びとなって、この二年間に改めて日常の食べ歩きに加えて、いっていないお店がないようにと、徹底的に調査してみると、今まで食べに行っているだけだと気づかなかったそのお店の歴史や、そこで働いていた人々の京都での動向、店と店との関係や、同じ国の料理でも、地域性の違いなど、さまざまな部分が浮かび上がってきた。

そして、ちょうど和洋中華以外のお店が省都に誕生して50年がたっている事が判明した。これは実は、私の年齢とほぼ同じである。

私が生まれたころ。昭和31年は、戦後まだ日本人の一般のひとが、海外に行くのが、非常に困難な時代だった。

かろうじて、料理界は、和洋中華と焼肉などから始まった韓国朝鮮料理ち続いて洋食からフランス料理。そのフランス料理からスペイン料理。意外なことにイタリア料理より」スペイン料理が京都では先に登場している。

スペイン料理の草分けは、嵐山の「ボデゴン」もともと「車折神社」の神官の二男だった高田さんが、嵐山の渡月橋の角にあった御旅所の一角にあった「桜餅」のお店の並びに、スペインから輸入した家具などで、一種の個人的ゲストハウス的な空間を開いたことにはじまる。東大出身で、貿易商となっていた高田さんには。外交官など海外にも多くの友人がおり、その国際的ネットワークによって、一般人としては、いち早く海外に出ることができた。もともと「車折神社」は、鉄斎ゆかりの神社。更に高田さんは、陶磁器にも深い造詣があり、更にスペインや中国宋代の陶磁器にも造詣が深かった、そんな関係で、ボデゴンの前身のゲストハウスを作り始められたころ、ちょうど京都芸大にいた父も遊びに行ったそうで、その後中近東調査のころに、イランでも再開している。

この、1人の世界をまたにかけた飛びわわっていた貿易商のてによって、約半世紀前に京都に早くもスペイン料理店が作られることになる。そして、「森繁」なる摩訶不思議なインカ料理のお店で、ホワイトカレーとインカコーラーをいただいたとき、まだ学生であった私は、これ本物ですか?と失礼な質問をしたものだ。お菓子のナガサキヤが、四条河原町のフランス料理店に続いて高島屋にスペイン料理「パティオ」を開いた。まだオリーブオイルを日本人が受け入れられなかった時代。当初の本格的スペイン料理は受け入れられず。子供でも食べられるように、パエリアは、バターライスにしてほしいとのつよう要望から、サフランバターライスに魚介類がのったものに改められた。

イタめしブームまで、オリーブオイルは、タブーに等しかった。

インドネシア料理と関係なかったが、現在「ミュンヘン」がある河原町四条1筋上がった東に「ジャワカレー」なるお店があり、父に連れて行ってもれった時、これがインドネシアのカレーか。と思った。「ジャワカレー」は、格式ある洋食店が、おいしい洋食のカレーをだすお店として作られたが、かなり高級なおみせだった。当時向いに「ト一食道」があった。「キャピタル東洋亭」が、まだ三条下がった映画館の並びにあった時代の話。「スター食道」も当時は高級洋食屋で、壁には日本人と結婚したオーストリア人の女流画家の絵が描かれて話題になっていた。

約40年前あたりから、ようやく海外に自由に行き来できる時代になって、いくつか京都の顔となる外国料理店ができ始めた。
ロシア料理「キエフ」タイ料理「デポサワディー」・「タムサバイ」インドネシア料理「ザッパ」インド料理「アショカ」「ムガール」「ケララ」「タージマハル」イタリア料理「フクムラ」「タントタント」「ながぐつ亭」「イルパッパラルド」・・・

そしてあの伝説の無国籍・エスニック・多国籍の草分けの3店舗が京都に誕生したのである。
ジャズ居酒屋。和食から無国籍な料理が羅列された、名前通り「ざっくばらん」
この店で料理を担当したしげさんは、その後「ざっくばらん」より有名になった系列の「セカンドハウス」でパスタなどを担当。今では、京都のイタリアンを代表する西洞院店の北側に「ザックホール」までできているが、しげさんは「シッツゲッツサン」という自分のお店で、相変わらず、類まれな無国籍のウマイもんを河原町の「マロニエ」の北露地を入ったところで、マイペースで頑張っておられる。タイ料理「Kroon」の渡辺さんも、ザックから「アジアティカ」店長を経て独立。

同じくエスニックのさきがけとして当時世界の料理を集めた「無国籍料理カプリチョース」は、ゆうまでもなく私が責任者を務めたお店。現在3号店「セサモ」が、会社から独立して、山田店長のお店になって、三条木屋町でスペイン料理中心にいいお店になっているが、グループは、「鹿々谷山荘」が大ブレイクして以降、「ちょうちょ」「丁子屋」ほか5軒とも和食中心になった。
以前もご紹介したが、私が現在ロシア料理「キエフ」に。当時料理長の平山さんが西院で、無国籍料理「すみや」を開き、大槻カズが和食の「いやいやえん」。大槻春さんが「スピークイージー」烏丸店料理長。ベトナム料理「333」中国料理「上海バンド」イタリア料理「FRIGO」のオーナー達も、カプリの門をくぐった経験を持つ。

多国籍で世界中のコック、特にアフリカ料理なども出した「クーシン」は、食べる心を意味し、御所東の寺町で長く頑張ったが、現在は北大路の叡電交差の東の交差点の南東角で、こじんまりと、しかしあいかわらず、世界料理を出している。アフリカ料理「アシャンティ」のケンコフィーさんも、木屋町にあった「クスクス」の後、この店の門をくぐって独立している。

北白川のメコシコ料理「ベラクレス」は岡崎の「Reina de Reina」になった。
各国料理司祭は改めて紹介するが、この38年ぐらい前から、伝説の店が次々登場する。
アメリカケイジャン料理とカントリーミュージク「ホンキートンク」もこのあたりで誕生。
タルトタタンで有名な「ラボアチュール」がスペイン料理「フィゲラス」を開いたのも同じころ。タイ料理店が続々登場。ブラジル料理「カフェジーニョ」もわすれてはならない。

そして、京都は、世界の料理が食べられる食の都になっていくのである。

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