2007年01月10日
大好きなオーナー「東観荘」の元女将吉川さんと武田社長
円山公園の奥に「東観荘」という和食の隠れ家がある。とはいえ現在は表にお昼のメニューもでている。是非ご利用いただきたい。実は、この店のオーナーは武田社長。「タケシ」と当時の吉川社長の呼び捨てにされても、それが愉快という顔で笑っておられた、温厚で豪快な大物である。実は、「東山閣」「東観荘」「東山山荘」は同じ系列だった。兄弟それぞれに受け継いだお店を経営されてたが、武田社長は、大学から後東京で開かれた別の通信関連事業で大成功されていたので、気心のしれた呉服会社の部長まで務めた吉川さんに、「東観荘」の運営を任されたのだ。吉川さんの遊び心の文化サロン的料理屋には、京都の顔といえるような粋な人たちが続々終結して、やがて「逢月サロン」と名付けられた。紫式部の歌から取ったのだ。私も陶芸家としてこのサロンの立ち上げに参加し、4人衆の一人として、2階の奥に専用の部屋ももらって、店作りと店の器や織部のカウンター作りを始めた。
東京にいる時間の多い武田社長も、京都ではかならず仲間入りされたので、私も何度か酒盛りさせていただいた。ついに100人のメンバーで、「はらはらと」という本が出版された。陰で吉川さんを支える、口を出さない武田社長と、阿吽の呼吸で表の看板を引き受けた吉川女将(私達は、お佳さんと読んでいた)。現在、吉川さんの友人が東観荘を運営しておられ、お佳さんもバックで支える1人になっておられる。ただ一つ違うのは、ここで生まれた「円山陶芸倶楽部」は現在泉涌寺に移っており、円山公園の名前の由来でもある安養寺の檀家総代は、東観荘の前身の弥阿彌ホテルの創業者の井上家の現当主。その弟の井上さんと吉川さんは、現在私の実家で陶芸を楽しんでいる。料理屋が100人以上の仲間にとって、家のような存在になり。そこで出会った私達は、今も家族のように付き合っている。
東京にいる時間の多い武田社長も、京都ではかならず仲間入りされたので、私も何度か酒盛りさせていただいた。ついに100人のメンバーで、「はらはらと」という本が出版された。陰で吉川さんを支える、口を出さない武田社長と、阿吽の呼吸で表の看板を引き受けた吉川女将(私達は、お佳さんと読んでいた)。現在、吉川さんの友人が東観荘を運営しておられ、お佳さんもバックで支える1人になっておられる。ただ一つ違うのは、ここで生まれた「円山陶芸倶楽部」は現在泉涌寺に移っており、円山公園の名前の由来でもある安養寺の檀家総代は、東観荘の前身の弥阿彌ホテルの創業者の井上家の現当主。その弟の井上さんと吉川さんは、現在私の実家で陶芸を楽しんでいる。料理屋が100人以上の仲間にとって、家のような存在になり。そこで出会った私達は、今も家族のように付き合っている。
2007年01月10日
大好きなオーナー4モダン焼きのフジ
吉田本通りから市場への入り口に鉄板焼きの「フジ」があった。やわらかいハンバーグが絶品で、学生寮の弟分のタイのシリキャットが、京大時代にバイトし始めた。そんなこんなで、私まで息子扱いされていろいろサービスしていただいた。百万遍から出町の駅に抜ける中ほどに、3階建ての住まい店をたてられて移転。まるで水を得た魚のように、様々な留学生アルバイトとの交流などもあって、エスニックモダン・シチュウモダンー・ガーリックモダンとメニューは30・40・50と増え続けた。不思議な事に寮時代のルイパパの3兄弟といわれた、長男私・次男シリキャット・三男ハヴィの中のハヴィから電話がかかってきた。私が陶芸と中国飯店でがんばっていた時である。アメリカのシリキャットが京都に遊びに来たので、三兄弟でご飯食べしよう!との誘いの電話。「和食?フレンチ?中華?エスニック?」と聞くと。ハヴィの答えは、やっぱり「フジのモダン焼きやろう」との答え。オーナーの荒川さんに会いたい。「OK」3人はハヴィの家族も含めて『フジ』に集合。巨大な特性モダンを皆でつつきながら荒川さんご夫妻も交えておおいに盛り上がった。昔話ばかりに話が尽きなかったが、途中ではたと気づいた。何年ぶりでも、3人の話し方や言葉使いは、3兄弟時代のままに戻って話している。ところで、今何してるの?普通最初に聞く質問だが、懐かしさのあまりすっかり学生時代にもどっていた。シリキャットはアメリカベル研の研究員。ハヴィは京大教授。若いのに2人ともとんでもないとこにいた。とはいえ、ルイパパ(3人にいつも料理を作ってご馳走して世話してくれていた香港出身の留学生)のはなしになった。ルイパパは元気?私は、京都と香港で3回会っていた。阪大の留学生だったイタリア人の奥さんと結婚して貿易商でシンガポールに引っ越した。子供もかわいい。奥さんのバナナケーキもおいしい。「やっぱり、昔のパパの彼女はフランス人だったから」・・・パパの想いではなしで盛り上がった。フジでバイトした学生達は、いくつになっても皆訪ねて来る。文字通り2人の人柄はお父さんおかあさんそのものなのだ。一度店の看板も消えた前を通りがかった。気づいた荒川さんが、ビール飲んでいきいな。と顔をだした。酒盛りの始まりだった。
Posted by こやまあきゆき at
01:04
│食堂・日常の和洋中華
2007年01月10日
大好きなオーナー2中国料理・東急ホテル「中国飯店」
京都のホテルの中国料理は、かなり満足できるお店が揃っている。やはり食材に十分な予算を使えるし、スタッフも現地での上級料理人達が腕を競っている。そんな中私が唯一スタッフとしてお世話になったのが、東急ホテル「中国飯店」。「五福星」の伝統も受け継ぐ名門丁さん一家のお店である。京都に来た時は、高島屋の「中国飯店」の責任者からのスタートだった。最近はデパート内といえども高級店をはじめ、多彩な出店が可能になったが、昔は買い物に来たお客様や家族連れに、リーズナブルでスピーディーニお出しできるメニューがほとんどだった。そんな中で、徹底的にこだわりたい凝り性の丁さんは、ゆっくりディナーを楽しんでいただける、ホテル内に個室も加えた「中国飯店」をオープンした。元々音楽や美術に関心の深い丁さんご夫妻。実は、ご主人と良き友人だった関係で2年ほど手伝う結果となった。その後陶芸も教えている私のところに奥様も器作りに来られたり。何よりも長男勝っちゃん・長女のサリーちゃん・次女で社長の右腕のマリちゃんの3人共が、ほとんど休みなく手伝いをしていた。長男の勝っちゃんは、建築科を卒業して、竹中工務店の巨大建築物の現場監督まで務めていたが、家業を手伝う為に退職して調理場の修行に取り組んだ。なぜそんなに働くのかと、当時まだ20代前半で、遊びたい盛りの美人姉妹の妹マリに聞いたら、「若いとき苦労しないとロクな人間にならないから」とあっさり答えられた。どうすればこんな子供達に育つのか?丁家の家訓でもあれば教えてほしかったが、いっしょに家族のように働かせていただき、感じたのは、子は親の背中を見て育つという事。両親とも一つの店の支配人として別々に毎日定休日もなくほぼ毎日働いておられた。喜んでもらえるいい店を作ることが、生きがいのようだ。