京都くいしんぼうの会続々再結集

こやまあきゆき

2008年10月31日 01:35

京都で生まれた根っからくいしんぼうな私こやまあきゆき。
京都の登り窯のある泉涌寺の陶芸一族の中で生まれました。
名付け親の富本憲吉先生も、父喜平も、シルクロードの探検調査にかかわった事もあって、
富本先生や私の祖父で、生涯先生と行動をともにした鈴木清や父の工房が、鈴木家の登り窯を取り囲む形で立ち並び
私は、この通称「黒門」で、生まれました。
ここには、アメリカ陶芸の草分けのフレッド・オルセンさん他、たくさんの留学生や陶芸を学ぶ外国人が住んでいたり出入りしていて、あのロックフェラーファミリーも遊びに来ています。

そんな環境の中で生まれた私は、幼稚園・小学校・中学校と、同級生や友人とホ-ムパーティーを開くようになり、島田伸介さんの1年後輩で、大谷高校に入学しても、附属中学時代の友人らとHPを続け、京産大外語に入学すると、グリー倶楽部にも在籍しましたが、「京都国際交流倶楽部」を、8人の外国人の先生の協力で発足。「国際交流基金」からいただいた京都の国際交流の資料を基に、在京の各大学や国際交流団体。外国の文化センターの活動に28人の仲間と参加し、楽しい学生生活を送りました。その結果、京大生と一部同志社の学生しかいなかった「財団法人京都国際学生のい家」の寮生として入寮が許可され、3年間を過ごしました。

ここで、出会った8人で「京都食文化研究会」通称「京都苦胃辛抱の会」を結成。その後寮の後輩や料理関係者が続々入会。
10年で160人以上が参加しました。寮には数千人の留学生が住んでいたのでほんの一部ですが、それでも、スロベニア・香港・キプロス・スイス・ポルトガル・イタリア・アメリカ・ブラジル・チリ・イタリア・ドイツ・フランス・イギリス・オランダ・ベルギー・NZ・オーストラリア・アフガニスタン・中国・韓国ほか、日本以外にいろいろな国の仲間が参加しました。活動の流れでそれぞれが別の活動も始めたためにインド・タイ・シンガポール・インドネシアイラク・・・と輪が広がりました。

10年目に、インド料理の研究やクラシック音楽を聴きながらの会などを始めた現スロベニア料理ピカポロンツァ」のオーナーイゴール。インド音楽や中国料理などアジアンな交流にも積極的に取り組んだ中尾悦子。ブラジル料理「カフェジーニョ」などに、一時ケーキを作って配達していた、サンパウロ出身のクララ。世界の民族料理「パピルス」を開いた、京大出身のフレンチ料理人笹沼英司。中近東のキリムの貿易商で、和食「いやいやえん」を開いた大槻一之。中国現代史が専門の立命館大教授北村稔。

海外に行ったものもあり、10年で1度区切りをつけた「苦胃辛抱」。

その後、私が円山公園の「東観荘」の『也阿弥』というう、京都で最初のホテルの跡地(明治に最初のホテルとして開かれた『也阿弥』ホテルは、長崎商人井上喜太郎さんが開いた。分家の『常盤ホテル』が後に『京都ホテル』に改名。現在の『オークラ』)
で、はじめた『円遊会』は、こやまの器でこやまの料理を食べる会。だった。井上家の井上ただよしさん。『琵琶湖グランドホテル』の女将になる金子博美さん。世界のビール『ブラック』を、三条木屋町で経営していた黒川博美さん。北野天満宮神官の松吉真幸。後「淡交社」編集長になった、故 森田真司。「いやいやえん」を開いた大槻。医者で寮の後輩の野沢真司ら25名が参加して、円山公園と天満宮で毎月活動を続けた。

そうして、私が50歳で出版したい「京都は世界の食の都」をテーマにした、京都食の世界旅行の本を出す事を、具体的に考え始めた45歳の時、ロシア文化圏だけ空白な事に気づいた。

そうして、「キエフ」にかけた電話がきっかけで、私は今「キエフ」にいる。

150民族が暮らす、ユーラシア大陸の北半分を占める大国。
そして、続々と友人たちが集まり始めた。私も2年間で500軒のお店を京都で食べ歩いた。
スロベニアの「イゴール」やアゼルバイジャンの「レザ」他・・・
そして、「中尾悦子」が動いた。
寮の後輩の吉村(京大教授)と坂口(三菱電機研究員・異業種交流会主催)

「京都くいしんぼうの会」の名前で、活動が始まった。

長い前置きだったが、明日、中尾悦子が再び、懐かしい仲間を連れてくる。
堀内かずこ。 京都大学医学部に長く勤務した、日系チリ人。

くいしんぼうが、再び動き始める。

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