2008年10月31日
楓の誕生日は、「ラ・マルティーヌ」のチョコラ
今日は、愛娘 カエのお誕生日。
昨日予約した「ラ・マルティーヌ」のショコラでした。
カエおめでとう!
朝は、ホテルフジタ。昼からはキエフで仕事の私。間の時間にケーキを届けました。
中2で、バスケ部のキャプテン。
夜大塚愛の「ハッピーバースデー」を、電話で流しました。
おめでとう! 続きを読む
昨日予約した「ラ・マルティーヌ」のショコラでした。
カエおめでとう!
朝は、ホテルフジタ。昼からはキエフで仕事の私。間の時間にケーキを届けました。
中2で、バスケ部のキャプテン。
夜大塚愛の「ハッピーバースデー」を、電話で流しました。
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2008年10月31日
不景気は、くいしんぼうのチャンスでも小山は金持ち?
今日、私のいるロシアレストラン「キエフ」に、17年ぶりに再会するくいしんぼう仲間のカズコと今の「京都くいしんぼうの会」の世話人の一人、中尾悦子さんが来店した。
カズコは、チリ出身。日系だったため京都に留学。そのまま京都大学で研究を続けてきた。料理がうまいため、私が創設時にスカウトして創立8人のメンバーの一人。彼女の家でも何度の例会が開かれ、おいしいチリ料理をいただいた。京都にチリ料理店はないが、基本的にスペイン料理。特に魚介類を使った新鮮な料理が母国と共通しているので大好きだそうだ。
今も京大で研究を続けているので、出町近くの「リコリコ」ともうすぐできるマニエルさんの料理が楽しめる「ティオペペ」の東一条西入る。のお店を紹介した。
ところで、世の中不景気。自然と安くておいしいお店に花が咲いた。北山の野菜がおいしいバイキング「天使のカフェ」の東の方のお店がお気に入りだそうです。デザートも並んでいるので。
それなら加茂街道の「カフェショコラ」も安い¥1000ランチバイキングで、野菜がおいしいとバイキング談義。
外国のお客様を京都で接待することが多い彼女は、まず「がんこ二条苑」を1番良く利用するそうです。チリの人は、魚が好きなので、和食や寿司は人気なのと、建物が立派で、鴨川展望など、個室での食事の後建物や景色など見所が多いからだそうです。
皆さんご存知かもしれませんが、私こやまあきゆきは、「がんこ京都三条本店」のOPEN時のスタッフ。一応マネージャーとして、当時の東川支配人と京都の1号店を、立ち上げたメンバーです。店が落ち着いてちょっと気が抜けたのか、突然体調を崩して、休ませていただき、結局ご迷惑をおかけするのはどうもという事で、しばらくして退職したのです。その時の幹部や寿司・和食のスタッフとも仲が良かったので、元気になって早く戻って来いと皆さん行ってくださいましたが、すこし時間がかかる事になったため、残念ながら身を引きました。
それが、実家で療養するきっかけで、陶芸に目覚めるきっかけにもなり、お見舞いに来てくれた友人たちが、陶磁器の工房もある我が家にやがて出入りするようになって、「アトリエドユキ陶芸倶楽部」設立に結びつくのです。
話が飛びましたが、「がんこ」で仕事の後も飲み歩いていたのが原因で、決して仕事だけの問題ではありません。遅くまで仕事して、帰る時間には、2・3人飲み仲間が店の前で待っててくれる。それから飲みにいって、帰って、朝は、7時半に下鴨神社の南側にあった喫茶店で、今の家内と待ち合わせ。いっしょにモーニングセットを食べながら少しおしゃべりが日課でした。毎日睡眠3時間の生活は、やはり無理がいっぱいでした。ご迷惑をおかけした皆様ごめんなさい。でも、東川支配人は、現在副社長。
いつもまじめにがんばっているかたでした。さすが。
それにしても、不景気で、飲食店は大変といいたいのですが、朝お世話になっている「ホテルフジタ」は、紅葉もあって、当分満室。つまり、朝食バイキングに150から300位お食事に来られるのです。ピークが7時半から9時半の二時間。といううと、いかに裏方は大変かわかるでしょう。
おまけに、「キエフ」。本日も、「ヤーマチカ ディナーショー」で、夜は8時まで満席。
ありがたいことです。
ところで、2年で500店舗食べ歩いたと言いますと、必ず、金持ちとか、いろいろいわれますが、実は、こやまあきゆき。現在普段は、本を読んだり・書いたりするワンルームマンションで1り暮らし。家族は近所の1戸建て暮らし。もう1つの家に荷物が。
また、陶芸工房は実家です。
その結果、マンションにエコル生活のために、テレビ・冷蔵庫など家電が「電子レンジ」以外にありません。
冷暖房機能のエアコンもコンセントは抜いてあります。
よく皆さんエコロとかいいますが、私の1ケ月の電気代・ガス代は、なんと¥1000台と¥500以下。
ワンルームなので、家賃も¥40000
昨年まで住んでいたマンションに月15万払っていたのですが、寝に帰って朝6時半に出て行くなに無駄と引越し。
11万も浮いたのです。
なのに、京都の町は、ランチ¥500ぐらいからある街で、¥1000以下はザラにどこにでもあります。
学生の町は、大人になっても抜けないのです。
だから、最高! 夜でも¥3000で、おつりが来るのがうれしい。
もつといっぱい並べてほしいのです。
カズコは、チリ出身。日系だったため京都に留学。そのまま京都大学で研究を続けてきた。料理がうまいため、私が創設時にスカウトして創立8人のメンバーの一人。彼女の家でも何度の例会が開かれ、おいしいチリ料理をいただいた。京都にチリ料理店はないが、基本的にスペイン料理。特に魚介類を使った新鮮な料理が母国と共通しているので大好きだそうだ。
今も京大で研究を続けているので、出町近くの「リコリコ」ともうすぐできるマニエルさんの料理が楽しめる「ティオペペ」の東一条西入る。のお店を紹介した。
ところで、世の中不景気。自然と安くておいしいお店に花が咲いた。北山の野菜がおいしいバイキング「天使のカフェ」の東の方のお店がお気に入りだそうです。デザートも並んでいるので。
それなら加茂街道の「カフェショコラ」も安い¥1000ランチバイキングで、野菜がおいしいとバイキング談義。
外国のお客様を京都で接待することが多い彼女は、まず「がんこ二条苑」を1番良く利用するそうです。チリの人は、魚が好きなので、和食や寿司は人気なのと、建物が立派で、鴨川展望など、個室での食事の後建物や景色など見所が多いからだそうです。
皆さんご存知かもしれませんが、私こやまあきゆきは、「がんこ京都三条本店」のOPEN時のスタッフ。一応マネージャーとして、当時の東川支配人と京都の1号店を、立ち上げたメンバーです。店が落ち着いてちょっと気が抜けたのか、突然体調を崩して、休ませていただき、結局ご迷惑をおかけするのはどうもという事で、しばらくして退職したのです。その時の幹部や寿司・和食のスタッフとも仲が良かったので、元気になって早く戻って来いと皆さん行ってくださいましたが、すこし時間がかかる事になったため、残念ながら身を引きました。
それが、実家で療養するきっかけで、陶芸に目覚めるきっかけにもなり、お見舞いに来てくれた友人たちが、陶磁器の工房もある我が家にやがて出入りするようになって、「アトリエドユキ陶芸倶楽部」設立に結びつくのです。
話が飛びましたが、「がんこ」で仕事の後も飲み歩いていたのが原因で、決して仕事だけの問題ではありません。遅くまで仕事して、帰る時間には、2・3人飲み仲間が店の前で待っててくれる。それから飲みにいって、帰って、朝は、7時半に下鴨神社の南側にあった喫茶店で、今の家内と待ち合わせ。いっしょにモーニングセットを食べながら少しおしゃべりが日課でした。毎日睡眠3時間の生活は、やはり無理がいっぱいでした。ご迷惑をおかけした皆様ごめんなさい。でも、東川支配人は、現在副社長。
いつもまじめにがんばっているかたでした。さすが。
それにしても、不景気で、飲食店は大変といいたいのですが、朝お世話になっている「ホテルフジタ」は、紅葉もあって、当分満室。つまり、朝食バイキングに150から300位お食事に来られるのです。ピークが7時半から9時半の二時間。といううと、いかに裏方は大変かわかるでしょう。
おまけに、「キエフ」。本日も、「ヤーマチカ ディナーショー」で、夜は8時まで満席。
ありがたいことです。
ところで、2年で500店舗食べ歩いたと言いますと、必ず、金持ちとか、いろいろいわれますが、実は、こやまあきゆき。現在普段は、本を読んだり・書いたりするワンルームマンションで1り暮らし。家族は近所の1戸建て暮らし。もう1つの家に荷物が。
また、陶芸工房は実家です。
その結果、マンションにエコル生活のために、テレビ・冷蔵庫など家電が「電子レンジ」以外にありません。
冷暖房機能のエアコンもコンセントは抜いてあります。
よく皆さんエコロとかいいますが、私の1ケ月の電気代・ガス代は、なんと¥1000台と¥500以下。
ワンルームなので、家賃も¥40000
昨年まで住んでいたマンションに月15万払っていたのですが、寝に帰って朝6時半に出て行くなに無駄と引越し。
11万も浮いたのです。
なのに、京都の町は、ランチ¥500ぐらいからある街で、¥1000以下はザラにどこにでもあります。
学生の町は、大人になっても抜けないのです。
だから、最高! 夜でも¥3000で、おつりが来るのがうれしい。
もつといっぱい並べてほしいのです。
Posted by こやまあきゆき at
23:53
│くいしんぼうな人たち
2008年10月31日
京都くいしんぼうの会続々再結集
京都で生まれた根っからくいしんぼうな私こやまあきゆき。
京都の登り窯のある泉涌寺の陶芸一族の中で生まれました。
名付け親の富本憲吉先生も、父喜平も、シルクロードの探検調査にかかわった事もあって、
富本先生や私の祖父で、生涯先生と行動をともにした鈴木清や父の工房が、鈴木家の登り窯を取り囲む形で立ち並び
私は、この通称「黒門」で、生まれました。
ここには、アメリカ陶芸の草分けのフレッド・オルセンさん他、たくさんの留学生や陶芸を学ぶ外国人が住んでいたり出入りしていて、あのロックフェラーファミリーも遊びに来ています。
そんな環境の中で生まれた私は、幼稚園・小学校・中学校と、同級生や友人とホ-ムパーティーを開くようになり、島田伸介さんの1年後輩で、大谷高校に入学しても、附属中学時代の友人らとHPを続け、京産大外語に入学すると、グリー倶楽部にも在籍しましたが、「京都国際交流倶楽部」を、8人の外国人の先生の協力で発足。「国際交流基金」からいただいた京都の国際交流の資料を基に、在京の各大学や国際交流団体。外国の文化センターの活動に28人の仲間と参加し、楽しい学生生活を送りました。その結果、京大生と一部同志社の学生しかいなかった「財団法人京都国際学生のい家」の寮生として入寮が許可され、3年間を過ごしました。
ここで、出会った8人で「京都食文化研究会」通称「京都苦胃辛抱の会」を結成。その後寮の後輩や料理関係者が続々入会。
10年で160人以上が参加しました。寮には数千人の留学生が住んでいたのでほんの一部ですが、それでも、スロベニア・香港・キプロス・スイス・ポルトガル・イタリア・アメリカ・ブラジル・チリ・イタリア・ドイツ・フランス・イギリス・オランダ・ベルギー・NZ・オーストラリア・アフガニスタン・中国・韓国ほか、日本以外にいろいろな国の仲間が参加しました。活動の流れでそれぞれが別の活動も始めたためにインド・タイ・シンガポール・インドネシアイラク・・・と輪が広がりました。
10年目に、インド料理の研究やクラシック音楽を聴きながらの会などを始めた現スロベニア料理ピカポロンツァ」のオーナーイゴール。インド音楽や中国料理などアジアンな交流にも積極的に取り組んだ中尾悦子。ブラジル料理「カフェジーニョ」などに、一時ケーキを作って配達していた、サンパウロ出身のクララ。世界の民族料理「パピルス」を開いた、京大出身のフレンチ料理人笹沼英司。中近東のキリムの貿易商で、和食「いやいやえん」を開いた大槻一之。中国現代史が専門の立命館大教授北村稔。
海外に行ったものもあり、10年で1度区切りをつけた「苦胃辛抱」。
その後、私が円山公園の「東観荘」の『也阿弥』というう、京都で最初のホテルの跡地(明治に最初のホテルとして開かれた『也阿弥』ホテルは、長崎商人井上喜太郎さんが開いた。分家の『常盤ホテル』が後に『京都ホテル』に改名。現在の『オークラ』)
で、はじめた『円遊会』は、こやまの器でこやまの料理を食べる会。だった。井上家の井上ただよしさん。『琵琶湖グランドホテル』の女将になる金子博美さん。世界のビール『ブラック』を、三条木屋町で経営していた黒川博美さん。北野天満宮神官の松吉真幸。後「淡交社」編集長になった、故 森田真司。「いやいやえん」を開いた大槻。医者で寮の後輩の野沢真司ら25名が参加して、円山公園と天満宮で毎月活動を続けた。
そうして、私が50歳で出版したい「京都は世界の食の都」をテーマにした、京都食の世界旅行の本を出す事を、具体的に考え始めた45歳の時、ロシア文化圏だけ空白な事に気づいた。
そうして、「キエフ」にかけた電話がきっかけで、私は今「キエフ」にいる。
150民族が暮らす、ユーラシア大陸の北半分を占める大国。
そして、続々と友人たちが集まり始めた。私も2年間で500軒のお店を京都で食べ歩いた。
スロベニアの「イゴール」やアゼルバイジャンの「レザ」他・・・
そして、「中尾悦子」が動いた。
寮の後輩の吉村(京大教授)と坂口(三菱電機研究員・異業種交流会主催)
「京都くいしんぼうの会」の名前で、活動が始まった。
長い前置きだったが、明日、中尾悦子が再び、懐かしい仲間を連れてくる。
堀内かずこ。 京都大学医学部に長く勤務した、日系チリ人。
くいしんぼうが、再び動き始める。
京都の登り窯のある泉涌寺の陶芸一族の中で生まれました。
名付け親の富本憲吉先生も、父喜平も、シルクロードの探検調査にかかわった事もあって、
富本先生や私の祖父で、生涯先生と行動をともにした鈴木清や父の工房が、鈴木家の登り窯を取り囲む形で立ち並び
私は、この通称「黒門」で、生まれました。
ここには、アメリカ陶芸の草分けのフレッド・オルセンさん他、たくさんの留学生や陶芸を学ぶ外国人が住んでいたり出入りしていて、あのロックフェラーファミリーも遊びに来ています。
そんな環境の中で生まれた私は、幼稚園・小学校・中学校と、同級生や友人とホ-ムパーティーを開くようになり、島田伸介さんの1年後輩で、大谷高校に入学しても、附属中学時代の友人らとHPを続け、京産大外語に入学すると、グリー倶楽部にも在籍しましたが、「京都国際交流倶楽部」を、8人の外国人の先生の協力で発足。「国際交流基金」からいただいた京都の国際交流の資料を基に、在京の各大学や国際交流団体。外国の文化センターの活動に28人の仲間と参加し、楽しい学生生活を送りました。その結果、京大生と一部同志社の学生しかいなかった「財団法人京都国際学生のい家」の寮生として入寮が許可され、3年間を過ごしました。
ここで、出会った8人で「京都食文化研究会」通称「京都苦胃辛抱の会」を結成。その後寮の後輩や料理関係者が続々入会。
10年で160人以上が参加しました。寮には数千人の留学生が住んでいたのでほんの一部ですが、それでも、スロベニア・香港・キプロス・スイス・ポルトガル・イタリア・アメリカ・ブラジル・チリ・イタリア・ドイツ・フランス・イギリス・オランダ・ベルギー・NZ・オーストラリア・アフガニスタン・中国・韓国ほか、日本以外にいろいろな国の仲間が参加しました。活動の流れでそれぞれが別の活動も始めたためにインド・タイ・シンガポール・インドネシアイラク・・・と輪が広がりました。
10年目に、インド料理の研究やクラシック音楽を聴きながらの会などを始めた現スロベニア料理ピカポロンツァ」のオーナーイゴール。インド音楽や中国料理などアジアンな交流にも積極的に取り組んだ中尾悦子。ブラジル料理「カフェジーニョ」などに、一時ケーキを作って配達していた、サンパウロ出身のクララ。世界の民族料理「パピルス」を開いた、京大出身のフレンチ料理人笹沼英司。中近東のキリムの貿易商で、和食「いやいやえん」を開いた大槻一之。中国現代史が専門の立命館大教授北村稔。
海外に行ったものもあり、10年で1度区切りをつけた「苦胃辛抱」。
その後、私が円山公園の「東観荘」の『也阿弥』というう、京都で最初のホテルの跡地(明治に最初のホテルとして開かれた『也阿弥』ホテルは、長崎商人井上喜太郎さんが開いた。分家の『常盤ホテル』が後に『京都ホテル』に改名。現在の『オークラ』)
で、はじめた『円遊会』は、こやまの器でこやまの料理を食べる会。だった。井上家の井上ただよしさん。『琵琶湖グランドホテル』の女将になる金子博美さん。世界のビール『ブラック』を、三条木屋町で経営していた黒川博美さん。北野天満宮神官の松吉真幸。後「淡交社」編集長になった、故 森田真司。「いやいやえん」を開いた大槻。医者で寮の後輩の野沢真司ら25名が参加して、円山公園と天満宮で毎月活動を続けた。
そうして、私が50歳で出版したい「京都は世界の食の都」をテーマにした、京都食の世界旅行の本を出す事を、具体的に考え始めた45歳の時、ロシア文化圏だけ空白な事に気づいた。
そうして、「キエフ」にかけた電話がきっかけで、私は今「キエフ」にいる。
150民族が暮らす、ユーラシア大陸の北半分を占める大国。
そして、続々と友人たちが集まり始めた。私も2年間で500軒のお店を京都で食べ歩いた。
スロベニアの「イゴール」やアゼルバイジャンの「レザ」他・・・
そして、「中尾悦子」が動いた。
寮の後輩の吉村(京大教授)と坂口(三菱電機研究員・異業種交流会主催)
「京都くいしんぼうの会」の名前で、活動が始まった。
長い前置きだったが、明日、中尾悦子が再び、懐かしい仲間を連れてくる。
堀内かずこ。 京都大学医学部に長く勤務した、日系チリ人。
くいしんぼうが、再び動き始める。
Posted by こやまあきゆき at
01:35
│くいしんぼうな人たち